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2021年6月1日火曜日

部室がない!免許もない!

  今日は休みだから一日中寝てやろうと思ったのに、一度も拭いたことない窓から差し込む朝日が眩しくて、アラビア人を殺してやろうかと思った。梅雨入りしたのだから山陰らしく雨でも降れば可愛げも情緒もあるのにと、腹が立つ。カーテンの無い窓から差し込む光を遮るには、とりあえずシーツを物干し竿に掛けてやればよいではないかと思い立ち、朝っぱらから洗濯機を回して柔軟剤の匂いで部屋を埋め尽くしてやった。気分がいいからテスト勉強なんて放っておいて、散歩に出かけよう。そうしたらゲーテの「ファウスト」みたいにメフィストフェレスに会えるかもしれない。同じ「光を愛せざるもの」として打ち解けられるだろう。こんにちは、映画研究会の柿原です。よろしくお願いします。散歩に行く前にブログを更新しようと思いまして、今こうして書いている次第にございます。

 何故だかしらないが、今年は映画研究会にかなりの人数が入ったので、部室も夢じゃなしということで、サークル棟に映画研究会の部室を設けたいと考えていた。しかし、先輩の話によると秋まで待たなければいけないらしい。それまでは今の人数を維持したい。もしくは、これからもっと入部してくれてもいいのだけれど。そうすれば部室で麻雀を打ったり、いらない本をかき集めて作った「映研図書」を設置したりすることができる。もちろん、撮影機材の置き場にも困らない。「夢は夜ひらく唄っても、ひらく夢などあるじゃなし」と言ってたのに、映研の未来は明るいのではないか。その頃には僕はいないのだけれど。相変わらず僕の将来はわからない。「サルトル、マルクス並べても、明日の天気は分からねぇ。」って感じです。

 「私が哲学の話をすると、相手は大抵嫌な顔をする。」ことが対他存在の責任者である僕には分かってきた。彼等のまなざしに嘔吐することはないのだけれど、部屋に一人でいると孤独の果てに吐き気を催してくる。何度もこのブログ内で、大学生の孤独について書いているが、嘔吐するほどになれば逆に楽しくなってくる。友達や話相手がいなくても、本や映画を通して自己と対峙することができる。つまり、自分の知る限り最も理解のある人間と会話することができるのだ。先に言っておくが決して病んではいない。精神は安定しているし、寧ろ健康的な方だ。人間はどんな社会に属していても大抵は他人と関わりあいながら生活しなければならない。それは不断のストレスとしてこれまで自分を苦しめていたのかもしれない。こうなったのは先月、一週間ほど地元の友達が泊りに来ていたことが関係していると思う。彼が一週間もこの狭い部屋にいたことで、僕はかなり精神的に参っていたし、とにかく早く独りになってゴダールの「イタリアにおける闘争」を観たかった。やれ「また、共産主義か。」と彼に揶揄されるのは腹立たしいし、彼と口論したとてアウフヘーベンすることはないというのは長年の付き合いで知ってる。そんな奴に行動を制限された環境から解放された今、独りがとても楽しい。寂しさの静寂は音楽が埋めてくれる。浅川マキのアルバムでも聴きながら散歩に行こう。鳥取駅まで行ってギターの弦を買って、岡林信康のフォークソングでも歌おう。ウッディアレンみたいに昔を羨むばかりじゃいけないんだろうけど、資本主義経済の国際化でアイデンティティを見失う前に。モラトリアムが守ってくれている間、諦念はいらない。

2021年5月3日月曜日

コーヒー3杯と映画4本

 最近、散歩をすれば栗の花がくさい。GWになりましたが、どこにも行けないし、何もすることが無いので部屋にこもって映画を観たり本を読んだりしています。何もすることが無いというのは厳密に言うと違うんですけどね。勉強しないといけないし。

どうも映画研究会部長の柿原です。宜しくお願いします。なぜかまた暫くの間、部長をすることになりました。できれば誰かに代って欲しいです。誰か他に年下との付き合い方が上手くて、それがストレスにならない人間に。映画に詳しくなくていいから真面目な人間に。

 それはともかく、今年も何人か新入生が入部したらしいです。今のところ全体として17人ほどですが、これまでの歴史で一番多いらしいです。それでいて、毎回の鑑賞会に全員が集まるようなことがあれば優秀なのですが、それは多分叶わないと思います。

 今年の新入生が一体何を期待して入部したのか知らないが、結局のところサークル活動の本質とは僕が思うに人間関係でしかない。その一種の道具として映画がそこにあるだけだ。映画をただ観るだけなら一人の部屋で観ればいいし、ただ良い映画を撮りたいならどこかの芸大や専門学校に行って勉強するべきだ。それに、映画好きな友達が欲しいだけなら平日の映画館に行って一人で来てる奴に話しかければいい。それが出来ないからサークルに入るんだろう。地獄とは他人のことだとサルトルは言っている。人間関係なんて煩わしいものだが、ときには孤独を忘れさせてくれる。もしかしたら、一生の友人関係ができるかも知れない。行動をしない限りはなにも可能性は広がらない。今年の映画研究会に入部を決意した新入生が自分の行動を後悔する日が来ないことを願う。この先の大学生活には不安があるかもしれない。不安とは自由だ。そうサルトルは言っている。

 

 今日の朝、最悪な夢から覚めて、長いシャワーを浴びて、最悪な味の煙草を吸った。外は雨が降っていて、窓を開けて吐いた煙が水滴の間を縫って空気に溶けていった。悪夢を引きずりながらコーヒーを飲んでも気分が上がらなかったので、今日は一日中映画を観ることにした。

昨日も4本ほど映画を観たが、今日はどれくらい観れるのか。リストに入れたままになっている映画を消費しなければならない。部屋の隅に積んである本なら旅行に持って行けば少しは片付くが、映画はこういう精神状態のときに観ると良い。二日酔いの朝か、失恋した夜か。または、それ以外の最低な休日。

無意識のうちに「夢やぶれて」を口ずさんでいたので、まずは「レ・ミゼラブル」を観ることにした。誰でも一度は耳にしたことがあるだろう。知らないなら「あゝ無情」という題名で知っているかも知れない。どちらも知らないという奴は自らの無知を恥じるべきだ。かの有名なフランス人作家、ヴィクトルユーゴ―の同名著書が原作である。僕は映画の感想を書くのが苦手なのであまり内容には触れないが、この映画は観る度に泣いている。

泣くとセロトニンが分泌されるらしい。「レ・ミゼラブル」を観たおかげで、少し気分が落ち着いた。次は何を観ようかとリストを眺める。なんとなく軽い気持ちで松本清張が原作を書いた「砂の器」を観ようと決めた。この前観た「鬼畜」は面白かったし。途中で「あ、御前様の人だ。あ、寅さんじゃない渥美清、久しぶりにみたなー」と、思いながら見続ける。日本の映画で、それも刑事ものの映画を観ることはなかなかなかったのだけれど、意外と面白かった。ただ二時間半は少し長く感じた。

 この前、鳥取にしては珍しい風の無い日。先輩と意味もなく夜中の賀露海岸へ行って少し映画の話をした。ロマン・ポランスキー監督の映画。それを思い出した僕は、次に「ローズマリーの赤ちゃん」を再生した。ポランスキーが初めてアメリカで監督した映画だ。アイラ・レヴィンが原作を書いているホラー映画。悪魔教徒の話だというのは先輩から先立って聞いていたが、前半にあるミア・ファローが幻覚の世界に堕ちていくという描写がサイケデリックな映像で表現されていてすぐに心を掴まれた。妊婦のノイローゼなのか?悪魔教徒の陰謀なのか?最後まで分からないがとにかく胸糞悪い。最近観た映画の中で最高の映画だった。この映画も二時間以上あるし、1968年に公開された映画なのに、全くそれらを感じさせないほど面白い。この映画の公開後にロマン・ポランスキー監督が結婚したシャロン・テートが妊娠中、マンソンズファミリーに惨殺された話を知っていればまた面白いかもしれない。シャロン・テートに関しては2019年公開のクエンティン・タランティーノ監督の映画「ワンスアポンアタイムインハリウッド」を観れば少し分かると思う。

 せっかくだから、前から気になっていたポランスキー作品を観よう。別の知り合いに「毛皮のヴィーナス」を薦められていたんだ。「ローズマリーの赤ちゃん」みたいに女性が追い詰められていって精神を崩壊していく「反撥」という映画も流れで観たいと思ったけど、同じような映画を立て続けに観たらこっちが変になる。それに「毛皮のヴィーナス」はマゾヒズムの語源になったレオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホが原作を書いてるなんて魅力的だ。サディストの語源となったマルキ・ド・サドが原作を書いた「ソドムの市」も面白い映画だったし、性的倒錯者の作品に外れはない。という訳で、次の映画はフランスで制作された「毛皮のヴィーナス」。90分くらいの短い映画だし、2013年制作なので映像としてかなり見やすい。ここに詳細な感想を書くといかに自分自身が変態であるかということを露見させかねないのでやめておこう。一言でまとめるならば、これも最高の映画。深夜の暗い部屋で1人、鑑賞することをお薦めする。

 この映画で、ポランスキーの嫁さんでもあるエマニュエル・セニエの魅力に気付いたので「赤い航路」を次に観ることにした。その後はポランスキーの「袋小路」「反撥」。結局のところ僕はこのGW前半でポランスキー映画にハマってしまったのだ。気付いたら最低な目覚めを引き起こした夢のことなど忘れてしまっていた。

 

 今回はこのあたりで終わっておこう。今週読んだ小説の話をすればまた長くなってしまう。コンラートローレンツの本を読んで犬を飼いたくなったり、サルトルを読んでまた実存主義に傾倒していったりっていう話はまた今度話します。お疲れさまでした。

2021年4月1日木曜日

小さきものへ・新歓についての悩み

 どうも、皆さん。鳥取大学映画研究会、前部長の柿原です。現部長はたしか白濱君だったと思うのですが、ブログを書く担当は僕になっているので、白濱君とはまた別の機会に会ってください。春休みももう少しで終わることだし、入学式なんかもあったりして、もう新学期が始まろうとしていますね。この時期になれば、例年は正門前あたりに大学デビューを図った新入生の群れがあるのですが、コロナの所為で今年は観測できませんね。6年間以上の制服生活から急に慣れないお洒落をして、女子から連絡先を聞き出そうとしている金髪君は、この季節の僕の愉しみだったのですが。

 映画研究会に少しでも興味があって、日本語が少しなら読めるという新入生が何人か、このブログを読んでいることを期待して、いまこうして書いています。今回は多少新入生に向けた文章を書きつつ、先日あった新歓についてのオンライン会議の報告やらなんやらをしたいなと、思っています。宜しくお願いします。

 

オンライン会議に至るまでの道程として、後輩がTwitterにて「#春から鳥大」とツイートしている新入生に対して、片っ端から見境なくファボするというようなことをしていたが、それでは全くと言っていいほど成果が上がらなかった。まぁ、それはそうだろう。毎年、多種多様なサークルが新入生の新設アカウントをフォローしているが、新入生の興味を惹くことができるのは一部の限られたサークルのみである。そのサークルの本質とは、教養の為の知的活動ではない。それらは決まって、異性間交流、先輩から後輩への過去問の受け渡し、有象無象が入り乱れる飲み会などに精を出しているようなサークルである。それらは幼気な新入生にはいかにも輝いて見えるのであろう。僕は悲しい。

毎年いったいどれほどの新入生が、楽しそうな活動内容に惹かれ、ろくに話せもしない女子の視線が入り乱れる新歓コンパの中、あわや彼女でもこのサークルで作れるのかもしれないなどといった甘い期待のもと入部し、結局同種の男仲間すら作れずゴールデンウィークあたりにサークルを辞め、孤独なソーシャルゲームの世界へと導かれ、無為に学生生活を終えてしまうのだろうか。僕は非常に悲しい。彼らが就活生になったとき、エントリーシートは空白である。

 

 話が少しばかり逸れてしまった。オンライン会議の様子といっても僕は寝ていて、参加できませんでした。なので、後日後輩と先輩から聞いたことを総合的にまとめて書きます。

 後輩の話によると4月からオンライン新歓みたいなものをするらしいのですが、誰もオンライン新歓というものが何なのか理解していないので、一体どんな仕上がりになるのか楽しみです。他のサークルと比べれば、意外とオンラインで活動がしやすいサークルの一つだと思われる、我らが映画研究会ではありますが、これまでの映画鑑賞会などの活動をどのようにオンライン上で行うかなどという課題はまだいろいろとあるなと思います。

 原則として、大学の授業がオンラインで行われる限り、全サークルの活動もオンライン上に限られるなどといった通達があったのですが、他のサークルはどうしているんだろう?最近気づいたことには、映画研究会というサークルは部室もない弱小サークルだと自負していたが、それはもしかしたら間違っているのかもしれないということです。部室がないので、部員の部屋を部室代わりにしているのは希有なことであるが、去年まで、部室の枠を狙っていたライバルの手品同好会だかなんだかは潰れてしまったらしいし、女子のバスケットも全然人がいないと言ってたし、麻雀同好会とかいうのも活動しているかどうかわからないし、文芸部は最近見かけないし。ここだけの話だが、マーレの前に置いてあった文芸部の冊子を一度手に取ったことがあるが、あれはまさにショーペンハウアーが「読書について」という本で何度も苦言を呈していた文章の最たるものであると感じた。まぁこんな話は置いといて。部員がいまのところ12人もいて、比較的きちんと活動している映画研究会は、文化系サークルのなかでも優秀なものであると認めざるを得ない状況である。だから、新入生諸君!その胸に宿す華やかなキャンパスライフという希望の芽を立派な一樹の巨木へと成長させられる園は、我らが映画研究会という土壌なのかもしれないではないか。どこのサークルに入れば大学生活という最後の青春を謳歌できるものかと、考えあぐねている新入生で、今!このブログを読んでいる君!の期待ならば僕は裏切らない!!

 

ここからは僕の春休みの話を書くので、全く興味が無いという人はここでブラウザを閉じて、もっとアナタの人生にとって有意義なものであると信じる本を読んで下さい。お疲れさまでした。

 

コロナ禍なのにも関わらず旅行に行きました。一人なら良いだろうというような安易な考えです。春休みが始まってしばらくの間、実家のある街へ帰っていたのですが、都会の人混みは精神を疲弊させるだけでなく、思索に耽る暇もないのです。だから、閑散とした山陰のワンマン列車に揺られて、九州は長崎県へ行きました。道中、寂れた漁村や有明海の静かな海を眺めていると、何年も頭の中に積もった情報の山から新しいものを生み出せるような気がしてきます。けれど結局、眠気の波の中で揺れて消えて行くので、有形無形のそれらがまた表面化して、人生の退屈と苦悩をぶち壊してくれる日が訪れるのを期待しながら車窓の流れる景色を眺めることしかできませんでした。

僕は、これといって旅先で何をするか、何を見るか、何を食べるか、などという事を全く決めずにただひたすらに目的地を目指す、という旅行をします。現地での計画などほとんどありません。アーケードに覆われた商店街の外れにある喫茶店で終日、時間を潰すこともあれば、天気の頗る良い日なら目的の無い散歩をすることもあります。それは梶井基次郎「檸檬」にあるような妄想のようなものです。とにかく、現地についてしまえばあとはただ、帰る日を待つだけなのです。だから僕は車窓を眺めながらまた、次の旅行先を考えていました。

 昔、と言っても二年前くらいの話ですが、カメラマンの先生にたまたま実家の近くでお会いした際の会話を思い出しました。先生は「実は、君に会って話がしたかったんだよ。街でこうして会ったのもただ、タイミングが良かっただけじゃないと私は思う。」というようなことをおっしゃられていました。そしてまた、続けて「これは、私が君に会いたいと思っていたことで現実化した邂逅であって、これは私の力なんだ。若い君は笑うだろうが、人生にはこういうことがよくあるものだ。」と言って、その後先生は、僕を近くの喫茶店へ誘ってくれました。

 話は電車の中に戻ります。僕はLINEの不在着信が一件あることに気付きました。それは、比較的新しい友人からの連絡でした。要件を尋ねてみると、彼は一緒に群馬に行かないかと言いました。僕は以前から前橋市にある「萩原朔太郎記念館」が気になっていたので、ふたつ返事で了解しました。こうして次の旅の目的地が決まったのです。記念館へ行った僕がどれほど感動したか、という話をすると長くなってしまうので省略しますが、とにかくそのときの僕は、これまでの目的のない放浪というのはここへ来るためにあったのではないだろうかと思うほどでした。そして僕はあの先生の言葉の意味を少し理解したような気になって、帰路についたというお話です。

 

 ここまでブログを飽きずに読んで頂いてありがとうございます。今回は少々長くなってしまいました。もし、新入生の方がこのブログをここまで読んでしまったのであれば、かなり疑問に思われることでしょう。「あれ?これは映画研究会の活動報告ブログではなかったか?それにしては、関係のない話題が多すぎるぞ?」その疑念を胸に抱いて生きて行ってください。いつか誰かと共有できるかも知れません。それでは、また次の日まで。お疲れさまでした。

2021年2月25日木曜日

時には映画の話を

  風強いよな、鳥取!寒いと思ったら暑いし、暑いなぁと思ったら寒い!ってか花粉症やばい!みたいな日が続いてますが皆さん、どうお過ごしでしょうか。俺は京都に帰ります。帰りたいので。こっちにいる高校の同級生が一緒に乗せて帰ってくれるみたいなので便乗する予定です。大学院に進学する予定のそいつに車中で「お前は将来どうすんの?」って聞かれるのが恐怖でしかないけれど、強い心を持って頑張ろうと思います。俺が一番聞きたいよ。将来何するんだろうな~。どうも、映画研究会の柿原です。宜しくお願いします。

 春休みに入って成績発表も終わったので、一日に映画を二本以上観ることを目標に生活をしている。三月は一人旅行を慣行しようと思っているので、自分で決めたノルマを達成するのは二月の内にできるだけ沢山観る必要がある。幸いにも観たい映画は山ほどあるし、いまどきレンタル屋に行かなくても配信サービスが二つもあれば、一歩も部屋から出ずに映画を観続けることが出来る。一本2時間弱の映画を観続けるのは体力を使うので、B級映画からフランス映画かロシア映画(エイゼンシュテインの髪型はデビットリンチと似てる)、サルでも分かるハリウッド・アクション映画というように見る順番が大切である。立て続けにシリーズものを観るのは大変なので、とにかく単発の一本で完結する映画ばかりを観る。YouTubeにあるような有名監督が学生の時にとった短編の自主制作映画などは5分から10分程度で、風呂に入りながらでも3作品ほど観ることができるが、探すのが大変だし、字幕が英語しかないものが多いので、そんなに数多く観ることはできないという欠点がある。映画産業、映画という芸術が確立される前時代の黎明期に撮られた映画もYouTubeなどで観ることが出来る。そういうのは大体5分にも満たないものが多く、ただのホームビデオのようなものであったり、陳腐なトリック映像であったり、とにかく現代の映画の形をしていない。今は誰でもスマホですぐに映像を取ることができるが、昔はえらく大そうな機材をもちよってつまらない映像を取っていたんだなぁとか思う。

 Filmarksを備忘録として使って何年か経つんだけれど、素人の映画批評を読むとムカつく。特に自分の好きな映画の一つである「ファイトクラブ」の批評文を長々と書いている奴は、「ホントにファイトクラブから何を学んだんだ?」って言ってやりたい。映画を一本しっかり観てから批評を書いている奴は100光年譲っていいとして、「残酷過ぎて途中までしか見れませんでした。」とか、「退屈だったので、途中で観るのを辞めました」とか書いている奴はなにがしたいんだろう。馬鹿なんだろうか。「ワルキューレの騎行」だけを聴いて、「ニーベルングの指輪」の全てを理解した気になっているような愚行。ワーグナーとニーチェとショーペンハウアーに謝れ。資本主義が芸術を貶めていると思っていたが、こういう似非映画評論家を気取っている奴らに映画は殺される。なんかつらつらとこんなことを書いているが、「そういうのは読まなければ良いんじゃないですか?」って言われるのは分かっている。まぁ確かに、お前は正論だ!

 観たい映画とはまた別に名作と呼ばれる映画であったり、その作品から映画が変わったと言われるようなものだったりを観ることにしているのですが、名作が全て面白いとは限らないなーって思う。まぁ結局好みなんだよなっていう話はよくしているんだけれど、それだけじゃない。これまでの映画を変えた作品というのは、それ以降にその作品以上に分かりやすく、大衆向けの娯楽映画として完成されたものが大量に制作されているので、それらの映画を観た人間からすれば「なんか分かりづらいし、つまんねぇな。」っていう感想を抱いてしまうのは必然であるような気がする。一方で「この時代にこんなことができたのか。」っていう映画の観方もあるかもしれない。しかし、その観点は「映画史」の一部として作品を論ずる上では重要かもしれないが、単純に「映画として面白いか?」という話の上では全く関係がないし、寧ろ事前にそのような知識をもって作品を鑑賞すると邪魔になると思う。そんなことは素人が知らなくていいんだよ。君がその映画を観て感動したっていうだけで全てなんだよ。退屈な人生を一瞬でも忘れられたら、他のどんな名作よりも最高の映画なんだよ。知らないけどさ! 

なんでノルマを自分に課してまで映画を毎日観るようにしているかというと、いろんな理由があって、折角の春休みを無為に過ごしてしまうのではないかという恐怖から免れる為っていうのもあるけど、まだ観れていない作品の中に人生最高の時間があるのかもしれないという可能性を信じているからっていうのもあるんですよね~。それが5分の短編映画かもしれないし、7時間の長編映画かもしれないしさ!

 

今回はこんな感じで終わることにします。コーヒーを飲んで、カフェインを体に入れないとボーっとしちゃうよ!脚本書かないといけないのになにやってるんだろう!最後まで読んでくれた人、ありがとうございます。君がまた読んでくれるなら、俺もまた書こうと思います。散歩行ってこよーっと。

2021年1月28日木曜日

うるせぇ!将来の話すんな!

  こんにちは、最近ブログを観ている人があまりいないようで書く気にもならないのですが、それでも数人の続けて読んでくれている希有な人に向けて書ける間は続けていきたいと思っています。いないと思いますが、今回から読んでくれている人から引かれない文章を心掛けていきたいと思っています。まぁ無理だと思いますが。

挨拶が遅れてしまいました。映画研究会の柿原です。これまで部長として文章を書いていたのですが、来期から部長が変わったのでもう部長を名乗れなくなってしまいました。それならば、次期部長がこのブログも更新すればいいのではないか?と、思った読者諸君は賢明である。しかしながら、「ブログの更新については引き続き柿原先輩がやってください」と、言われたので、今日もつらつらと駄文を書いている次第でございます。こんな書き方をすれば「仕方なくブログを更新しているのか!君は!」と、思われるかもしれない。しかし、それに対しては「そうではないのです!」と、真摯に答えたい。特に何も考えずにキーボードを叩いて、普段のストレスの捌け口となってしまっているこのブログをあまり手放したくないというのも俺の本心なんだよな。

 

 もうじき2月になる。と、いうことは春休みだ!わーい!わーい!! でも、そんな子供みたく手放しで喜んでられない。単位取得の為にテスト勉強だのなんだの。レポートを必死になってやったり、大学図書館に本を借りに行かなければならなかったりする。それに加えて俺の場合は、後輩が撮ろうとしている映画の脚本の執筆を進めなければならないという課題もある。多分、この映画が学生として撮れる最後の映画になるのかもしれないと思うが、なんだかんだ貧乏暇無しでやるべきことが山積みになっている。あー喫煙可能な喫茶店で、一杯400円くらいのコーヒーを飲みながら、友達とおしゃべりしてたあの生活は? 時間が無限にあるように感じてたのに、、、現実は辛い。このまま行くと近い将来、つまらない労働の日々に追われるのか。人生なんていかに儚いものなのか、全ては退屈と郷愁の中に溶けていくのだ。生まれるときも死ぬときもなぜ金がかかるのか、勝手にさせてくれ。人間なんて存在そのものが不条理だな。

 話題が逸れてしまったが、書き直す気はない。無理やり本筋に戻す。テストっていう現実から逃避するために脚本の続きを書くが、こちらも進展がない。どうも文章を熟考してしまう。ならば楽しいことを考えて、空想に逃げよう!そうだ!春休みになれば、日本中を放浪できるから頑張れるわ!って訳にもいかない。コロナで緊急事態宣言が出てるし、実家がある京都でさえ帰れるかどうかわからない。大卒の官僚が集まって「緊急事態宣言は2月8日までだ」と、言っているが延期されたりするかもしれない。今日の新聞では国内でも新型コロナのワクチン接種が行われるみたいな話が書いてあったが、どうなるかなー。どうも不安定なのは俺の精神状態だけではないらしい。何も考えずにふらふらしてたいな。

 

 昨日の深夜に地元の友達と電話で話した。同級生は今年大学を卒業する奴ばかりで、大学院へ進学する奴もいるが、大体はどっか「適当」に就職するらしい。俺には友達が少ないので、電話先のそいつから最近の同年代の動向を確認するしかない。最近はそんな話ばっかりだ。その友達自体は卒業後どうするのかというと、就活しないで、そのへんの界隈では有名な京都の劇団に入りながら、自分の劇団を立ち上げる機会を伺っているらしい。なんかいつまでも青春している奴だなーっと、いつまで経ってもチャランポランタンな自分を棚に上げて思った。そいつの知り合いで、高校の同級生だから俺も顔は知ってるがそんなに仲良くない奴がいて、そいつは公務員になるという話を聞いた。そしてなんか二人で笑った。「公務員なんてつまんねぇよな。」「夢が無いよな。」「社会に迎合してなんになるんだ。」

笑ながら「夢なんてどこにもないよ。」って言いかけたけどやめた。めんどくせぇから。そうだな。偉そうなこと言っても「社会」は俺達を知らない。無名であることと存在しないことは違うけれど、どこかそんな思いがふつふつと湧いてきた。そんなに面識もないけど同じ校舎で同じ時間を過ごした奴が、今年の春からは立派に働いて税金を納めているのかと思うとやりきれない気持ちだわ。地元の繁華街にはスーツを着た立派な「大人」が歩いている。「やりがい」「夢」「収入」「安定」。人生で重要なことって何なんだろうなって考える。1人で真剣に考えて1人で笑った。「何歳なんだよ。」花粉症の季節はまだ先なのに気が早いな。

 

それじゃあ、今回はこんな感じで。映画研究会と全然関係ないじゃん!って思ったそこのあなた!ちょっとうるせぇでございますよ。また暇潰しに読んでもらえたら書いてる側からすれば嬉しいです。お疲れさまでした。

2021年1月13日水曜日

いつの間にか、もう新年だ。

  新年の挨拶も遅れてしまいました。と、言っても誰も気にしてないであろうことですが。一応、あけましておめでとうございます。部長の柿原です。今年も鳥取大学映画研究会を宜しくお願いします。新年のムードも終わったけれど、なんとなくブログを更新してみようかなと思った次第でございます。

先日、映画ナタリーを見ていたら後輩が映画を作って参加したらしい「突然失礼致します」とかいう学生映画のプロジェクトが取り上げられてて、俺個人はあまりいけ好かない連中なのだが、あのようなものが学生の理想的な表象としてメディア関係の中にはあるのかもしれないと思った。

 そんなことは別にどうでもいいのだ。今日俺が書きたいことは最近の鳥取は寒すぎるという事。この街に来てから何年か経つが、俺が知る限りここまで雪が降ったのは初めてだ。それに加えて洗濯機が壊れた。連日、深夜には氷点下になるという気候が水道破裂を招いたからだ。そうなるとコインランドリーに行って一時期を凌がなければならない。車の免許もないので、路肩に積もった雪をサンダルで踏みしめながら、大量の洗濯物を入れた登山用のリュックを背負って、駅前まで歩いていく。さながら気分は雪山登山である。アイゼンを持ってたら装備したいが、そんな気の利いたものは持ってない。それにしても、アスファルトで摩耗したサンダルはよく滑る。そんな日に限って空は晴れていて、日光が凍った雪に反射して眩しい。だのでサングラスを掛けて家を出たのだが、結局出来上がったのは不審者である。いかのおすし。もう、雪を喜べる年齢は過ぎたのだなぁとしみじみ感じる。おこたに入って、カーテンの隙間から、音を立てずに積もっていく雪を眺めるのが一番良い。外にでるなんて怖い、怖い。映画観て寝ようぜ。

 

 ここからは読なくてもいいけれど、一般的な大学生の年末年始の過ごし方を参考として書いておこうと思う。皆さんもこれからの学生生活を充実させるため、後学のために役立てて頂ければ幸いである。

先輩から、周りは獣医学科ばかりで話相手がいないし寂しいから来てくれと、言われたので年末年始は神社でバイトする予定だった。言われた通りの日にバイトの面接に行ったのだが、その時からこの連中に囲まれて労働(禰宜さんには奉仕って言えって言われたけど、スケベ面がムカつく奴だった)をしないといけないのかと軽く絶望した。神社へ向かう車の後部座席に座っていた奴が、やけにテンションが高くて気色悪かったからだ。まぁでもどうにかなるだろうと思って、当日を迎えたわけだが、その日目覚めたときから嫌な予感がしていた。いつも通りサンダルを履いて、外界と孤独を隔てる薄いドアを開ける。すると、外は一面雪に埋もれていた。まず、ここでサンダルからブーツか何かに履き替えなかったのが間違いの始まりである。何故意固地になって、ツマラナイ拘りを捨てずにサンダルなど季節外れのものを履いて出たのか。その理由を説明するのは面倒だし、それ以前に聡明な読者諸君の貴重な時間を奪ってしまうのも心苦しいため、詳細は省略させていただく。

吹雪で数十メートル先の道路も見えない中を先輩の軽自動車が走る。助手席に乗った俺は既に文句を垂れていた。年明けをこんな田舎の神社で迎えるよりも、誰か気の合う連中と暖房の効いた部屋でゲームをしながら迎えたいと、確かそんな事を言っていた気がする。

 神社に着くと、平地より山側にあるため雪が異常に積もっていた。京都の都会育ちからすればそれはもう異常でしかないのだが、田舎の世間知らずからすればそれは普通らしい。ニュースでしか見たことがないような風景の中、車から降りる。サンダルでまだ降り積もったばかりの真新しい雪を踏むと、隙間から粉の様な冷たい雪が入り込む。帰りたい。巷に雪が降るように、わが心にも涙降る。

 社務所に入って「わーい、巫女さんばっかりだー」「あれだよね、めっちゃ微妙な顔の奴でも可愛くみえるよね。」と、喜んでいるのもつかの間。新年を雪塗れの神社で迎えようとする奇特な近所のヤンキーやらなんやらが集まってきた。そしてまた雪もより一層降り出す。「もう嫌だなー、すき焼き食べながらガキ使観たいな―」と思っていたら「雪かきをしろ」と言われた。足はサンダル。上着はわけわからん割烹着みたいな白装束。最悪。持ち慣れないし、見慣れない鉄製のスコップで、参拝客が踏みしめた雪が氷になったものを割りながら「もう帰ろう。もう、いいわ。」と心の中で囁く自分がいた。

 そんなに時間は経ってなかったはず。気づいたら遠くから参拝客の若者が一斉に騒ぐ声がした。それに続いて太鼓の音が鳴る。冷たい腕時計を見ると24時を過ぎていた。俺はあっけなく新年を迎えていたのだ。去年の今頃は何をしていたんだろう。今年よりはましな事をしていた気がする。実家の炬燵に入っていたかもしれない。それこそ友達と地元の神社に行ってたかもしれない。覚えてないが、とにかくもう2021年である。騒ぐ参拝客、その中には家族連れがいたり、カップルがいたり、地元の警察、遠くでお守りを売ってる巫女さん。それらの上には絶えず雪が降り続いている。めっちゃ寒い。もう嫌だ。もう二度と来ない。人に優しくしよう。

 左手にスコップを持ち変えて、スマホの画面を見ると友達数人から連絡が来ていた。『あけおめー』。その素っ気ない文章を見た俺は、明日の始発で地元に帰ろうと決めた。


 今回はこんな感じで終わりたいと思います。最後まで読んでくれたみんなありがとな!ってなわけでお疲れ様っす。