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2021年6月1日火曜日

部室がない!免許もない!

  今日は休みだから一日中寝てやろうと思ったのに、一度も拭いたことない窓から差し込む朝日が眩しくて、アラビア人を殺してやろうかと思った。梅雨入りしたのだから山陰らしく雨でも降れば可愛げも情緒もあるのにと、腹が立つ。カーテンの無い窓から差し込む光を遮るには、とりあえずシーツを物干し竿に掛けてやればよいではないかと思い立ち、朝っぱらから洗濯機を回して柔軟剤の匂いで部屋を埋め尽くしてやった。気分がいいからテスト勉強なんて放っておいて、散歩に出かけよう。そうしたらゲーテの「ファウスト」みたいにメフィストフェレスに会えるかもしれない。同じ「光を愛せざるもの」として打ち解けられるだろう。こんにちは、映画研究会の柿原です。よろしくお願いします。散歩に行く前にブログを更新しようと思いまして、今こうして書いている次第にございます。

 何故だかしらないが、今年は映画研究会にかなりの人数が入ったので、部室も夢じゃなしということで、サークル棟に映画研究会の部室を設けたいと考えていた。しかし、先輩の話によると秋まで待たなければいけないらしい。それまでは今の人数を維持したい。もしくは、これからもっと入部してくれてもいいのだけれど。そうすれば部室で麻雀を打ったり、いらない本をかき集めて作った「映研図書」を設置したりすることができる。もちろん、撮影機材の置き場にも困らない。「夢は夜ひらく唄っても、ひらく夢などあるじゃなし」と言ってたのに、映研の未来は明るいのではないか。その頃には僕はいないのだけれど。相変わらず僕の将来はわからない。「サルトル、マルクス並べても、明日の天気は分からねぇ。」って感じです。

 「私が哲学の話をすると、相手は大抵嫌な顔をする。」ことが対他存在の責任者である僕には分かってきた。彼等のまなざしに嘔吐することはないのだけれど、部屋に一人でいると孤独の果てに吐き気を催してくる。何度もこのブログ内で、大学生の孤独について書いているが、嘔吐するほどになれば逆に楽しくなってくる。友達や話相手がいなくても、本や映画を通して自己と対峙することができる。つまり、自分の知る限り最も理解のある人間と会話することができるのだ。先に言っておくが決して病んではいない。精神は安定しているし、寧ろ健康的な方だ。人間はどんな社会に属していても大抵は他人と関わりあいながら生活しなければならない。それは不断のストレスとしてこれまで自分を苦しめていたのかもしれない。こうなったのは先月、一週間ほど地元の友達が泊りに来ていたことが関係していると思う。彼が一週間もこの狭い部屋にいたことで、僕はかなり精神的に参っていたし、とにかく早く独りになってゴダールの「イタリアにおける闘争」を観たかった。やれ「また、共産主義か。」と彼に揶揄されるのは腹立たしいし、彼と口論したとてアウフヘーベンすることはないというのは長年の付き合いで知ってる。そんな奴に行動を制限された環境から解放された今、独りがとても楽しい。寂しさの静寂は音楽が埋めてくれる。浅川マキのアルバムでも聴きながら散歩に行こう。鳥取駅まで行ってギターの弦を買って、岡林信康のフォークソングでも歌おう。ウッディアレンみたいに昔を羨むばかりじゃいけないんだろうけど、資本主義経済の国際化でアイデンティティを見失う前に。モラトリアムが守ってくれている間、諦念はいらない。