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2020年12月9日水曜日

ディオゲネスになりたい。

 

今月から蟹旅館のバイトが始まった。もう今年で三回目ということは、鳥取に来てからもう三年が経とうとしているのだ。それに加えて、自分の年齢を考えるともうなんか泣けてくる。子供の頃、教室の後ろに張り出された「明るい未来」という拙い筆遣いで書かれた習字。あの教室に押し込められた生徒の何人が、明るい未来を迎えたのだろうか。成人式に行ってなければ、同窓会にも呼ばれない俺は何も知らない。お久しぶりです、部長の柿原です。オンラインテストもひと段落したのでブログでも更新しようかと思い立った次第でございます。そういえば映画研究会とかあったな、と思って頂ければ幸いです。でもこのブログはほとんど私物化しているので、映画に関係ない話が多いことをご了承ください。

 

社会人という言葉を学生との対比として使う奴が嫌いだ。労働をしているから社会に貢献しているなんていう幻想を抱いている奴こそ社会にそれほど必要のない仕事をしていて、性風俗や土方などといった肉体労働者をバカにしているのだ。まぁ、それは偏見だけど。

確か、なにかの映画で「大学を出てもヒッピーかセールスマンにしかならない」みたいなセリフがあった。それも一理あるような気がする。学費や奨学金の返済から資本主義に辟易して生活を捨てるか、適当に流れで就活して適当な会社で働くのか。まぁ俺の労働意欲というものはここ数年でどこかへ消えて行った。作家として文章だけ書いて生きていければいいのにな。それか中核派や革マル派に入って暴力で社会主義革命を起こすか!いや、それはナンセンスだわ。ナンセンス!この頃マルクス主義などと言えば理解の無い少年少女から蛇蝎視されることもあるが、それこそ資本主義的教育の賜物である。「自由」を掲げる正義の精神にはほとほと呆れる。もうどうでもいいから、全ての健康で文化的な最低限度の生活を投げ捨てて、犬儒派のディオゲネスのようになりたい。そしてボードレールが詩を書いたフリュネに好かれたい。

 

 どうして俺はこの街に、この大学に来たのだろうか。そんな話を昔の俺としていた。部屋にいても隙間風が寒いので、それならもういっそ新しい靴を履いて街へ出ようということになって、ビリーホリデイの「奇妙な果実」を聴きながら夜に歩いた。この街には孤独を邪魔するものは何もない。これまでの人生で人間関係に埋もれて見えなくなっていた自分が表面化している。未熟な精神が理想と現実との間で軋んでいる。自らを殺すために、自己毀損のためにここへきたのか?いや、そう思えるほど固い意志と存在を知覚したのだ。

また歩き疲れてふと頭上を見ると、空には星があった。星座などには詳しくないので、それは一つひとつが確固として存在しているただ綺麗な光の点でしかなかった。この街にはマンションも金持ちもいない代わりに、天気の良い夜は、誰にも邪魔されずに星が見えるんだな。

今回はこんな感じで終わります。最後まで付き合って頂いてありがとうございました。

 

2020年7月22日水曜日

湿気と悪天候に辟易する。


 梅雨が明けたかどうかなんて知らないけれど、雨が降らない夜が続いてる。星が見えるから、クワガタがいるかもしれないからと思って深夜徘徊。ワイシャツ一枚で外に出るとまだ少し肌寒いけれど、自販機では冷たい缶コーヒーしか売ってないので、煙で傷ついた喉に流し込むと、より一層孤独感が増すが、仕方ないと思える。狭い部屋の冷蔵庫の上に置いていたTRIALで買った食パンに黴が生えたので自殺しようと思ったのだが、(実は理由はそれだけではなく資本家や富裕層の為に媚を売って、消費社会に恩恵を与え続け、巨悪が肥えていく様に嫌気がさしたのだが、一学生に出来ることなど皆無であると敗北主義に走っていたのです。)毎月1500人程度自殺している日本では何も珍しい事では無いし、警視庁のホームページに記載された数字が一つ増えるだけで、それ以外に自分の意識が働かないところで起きる事象が思いつかなかったので、このまま存在を世界から抹消するのは癪だなと思い留まった。また、講義が無い日の明け方に酩酊するのも時代を問わず大学生の永久不変の性であり、そこに未知の世界を思慮することによって得られる漠然とした不安懊悩に駆られる不本意な時間を相殺してくれないかと願を懸けるのだが、二日酔いで目覚めた後に頭痛の切れ間から眺める景色には悔恨と嗟嘆の声を挙げずにはいられない。だいたい一週間ぶりです。鳥取大学映画研究会部長とは名ばかりの柿原です。宜しくお願いします。
 「コーヒー&シガレッツ」つながりでジムジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」を観て、もっと肉欲的な映画を観て人間嫌いを極めたいと思い立ち「失楽園」を観て、やはりどんな描写をしてもお互いにかかずらう動物的な人間というのは醜いものであると思う。先日、不倫や浮気に対して日本人はお互いにバレなければ良いなどとある意味寛容な立場をとっている人が多いという事実に対して知り合いの韓国人が不思議がっていた。1946年にアメリカの文化人類学者であるルース・ベネディクトによって出版された「菊と刀」という本がある。ここでは西洋は「罪」の文化、日本は「恥」の文化であると記されている。僕自身はそれに対してどちらが民族的に優れているかなどということはここで言及するつもりもないし分からないが、日本人はやはり「罪」という本質的なものより「恥」といった表面的なものに囚われて生活しているのではないかと感じることはよくある。だから、浮気や不倫がバレなければ、表面的な問題にならないのであれば気にしないなどという考えが蔓延するのではないだろうか。また、そのようなことが集団主義的な思想や、国の決定に対してあえて背くような態度をとらない日本人の主体性の無さにも表れているのではないかと僕は思う。今日も大東亜戦争における帝国主義的な政策や意味のない総力戦に対しての国民の態度と同じで、コロナウイルス禍における朝令暮改の典型のごとき事案や、大学をはじめとする教育現場の対応などを甘受し、何の主張もとらず、芸能人の言動にのみネット上で騒ぎ立てる現代日本がここにある。安部政権下における保守的かつ敗北主義的政策に対して未来など見出せるのだろうか。この国の将来について懊悩している学生は僕だけでは無いと思う。