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2020年7月22日水曜日

湿気と悪天候に辟易する。


 梅雨が明けたかどうかなんて知らないけれど、雨が降らない夜が続いてる。星が見えるから、クワガタがいるかもしれないからと思って深夜徘徊。ワイシャツ一枚で外に出るとまだ少し肌寒いけれど、自販機では冷たい缶コーヒーしか売ってないので、煙で傷ついた喉に流し込むと、より一層孤独感が増すが、仕方ないと思える。狭い部屋の冷蔵庫の上に置いていたTRIALで買った食パンに黴が生えたので自殺しようと思ったのだが、(実は理由はそれだけではなく資本家や富裕層の為に媚を売って、消費社会に恩恵を与え続け、巨悪が肥えていく様に嫌気がさしたのだが、一学生に出来ることなど皆無であると敗北主義に走っていたのです。)毎月1500人程度自殺している日本では何も珍しい事では無いし、警視庁のホームページに記載された数字が一つ増えるだけで、それ以外に自分の意識が働かないところで起きる事象が思いつかなかったので、このまま存在を世界から抹消するのは癪だなと思い留まった。また、講義が無い日の明け方に酩酊するのも時代を問わず大学生の永久不変の性であり、そこに未知の世界を思慮することによって得られる漠然とした不安懊悩に駆られる不本意な時間を相殺してくれないかと願を懸けるのだが、二日酔いで目覚めた後に頭痛の切れ間から眺める景色には悔恨と嗟嘆の声を挙げずにはいられない。だいたい一週間ぶりです。鳥取大学映画研究会部長とは名ばかりの柿原です。宜しくお願いします。
 「コーヒー&シガレッツ」つながりでジムジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」を観て、もっと肉欲的な映画を観て人間嫌いを極めたいと思い立ち「失楽園」を観て、やはりどんな描写をしてもお互いにかかずらう動物的な人間というのは醜いものであると思う。先日、不倫や浮気に対して日本人はお互いにバレなければ良いなどとある意味寛容な立場をとっている人が多いという事実に対して知り合いの韓国人が不思議がっていた。1946年にアメリカの文化人類学者であるルース・ベネディクトによって出版された「菊と刀」という本がある。ここでは西洋は「罪」の文化、日本は「恥」の文化であると記されている。僕自身はそれに対してどちらが民族的に優れているかなどということはここで言及するつもりもないし分からないが、日本人はやはり「罪」という本質的なものより「恥」といった表面的なものに囚われて生活しているのではないかと感じることはよくある。だから、浮気や不倫がバレなければ、表面的な問題にならないのであれば気にしないなどという考えが蔓延するのではないだろうか。また、そのようなことが集団主義的な思想や、国の決定に対してあえて背くような態度をとらない日本人の主体性の無さにも表れているのではないかと僕は思う。今日も大東亜戦争における帝国主義的な政策や意味のない総力戦に対しての国民の態度と同じで、コロナウイルス禍における朝令暮改の典型のごとき事案や、大学をはじめとする教育現場の対応などを甘受し、何の主張もとらず、芸能人の言動にのみネット上で騒ぎ立てる現代日本がここにある。安部政権下における保守的かつ敗北主義的政策に対して未来など見出せるのだろうか。この国の将来について懊悩している学生は僕だけでは無いと思う。

2020年7月16日木曜日

生活に埋没して図太く生きたい。


 「おい、地獄さ行ぐんだで!」とは言われなかったが、仕送りと僅かばかりの奨学金でギリギリの人間生活を送っていたので、マルクス主義で言うところの労働という自然疎外を学生である身を削ってしなければならないと考えていた折、先輩からバイトを紹介された。全くもって腹立たしいのは、学生というモラトリアム期間に、本を読んだり映画を観たりする時間を割いてまで金を得ようとしなければ、社会的な存在を認められないという風潮があることだ。しかし、人間にはエゴがあって、共産主義を目指した国が崩壊して、この国のシステムが資本主義である以上、金を持たねば自らの幸福の追求はままならないものであるような気がするし、生きることに固執する微小な欲求を満たすためにも金は必要だし、そもそもの実存に対する疑問というか、惰性でダラダラ生きていることにも辟易しているので、金の為に働くというのも、人間が生きる上で自らの矛盾と対峙しなければいけないことと同じで、甘受すべき問題であるのかもしれない。お久しぶりです。鳥取大学映画研究会の部長とは名ばかりの柿原です。宜しくお願いします。ぶらぶらと独り、夜間に散歩に出て、意味の無い煙草を吸って、意味の無い筋肉疲労によって乳酸が両足に溜まって、いつのまにか意味を感じなくなった人生の、意味の無い時間に、自由という鎖の上で、自由に選択した結果が今現在の自分であるとサルトル先生が言っていたので、また僕も死んだ蛇の目のような目をした人間を見て嘔吐するのも必然であると感じます。とにかくなんの目的もない散歩のなかで、街ですれ違う人間の顔を見てると、全くの生きる気力を失ったような表情をしているのがどこからともなく歩いて来て、またどこかへ行ってしまう。こんな黴臭い田舎の街にいると、主体性のある人生を送ることを諦めて腐って終わるか、なんの才能もない低能で無能な学のない白痴の人生を無理やりにでも肯定して、そのために他人の人生を否定して生きなければならないのかもしれないけど、それはこの田舎に限ったことではなく、この世界に溢れて、また今日も発情して生殖している人間の愛くるしい特徴の一つだと思う。まぁ色々書いたけど、こんなことを考えずに生活に埋没して図太く生きたい。
 知り合いの統合失調性の女性が、フェデリコ・フェリーニが好きだと言うので、僕も「甘い生活」をU-NEXTで観ました。La dolce vita。妄想癖と虚言壁がある女は退屈ですぐ飽きてしまうけど、フェリーニの撮った映画は人間の汚いところがあってずっと見ていられるほど素敵。「道」の劇中で、「君にも、この石ころにも存在する意味がある」とサーカスの劇団員が言っていた。僕は全くそう思わないけれど、夢があって良いなと思ったし、ちょっと泣いてしまったので、誰にも理想があって、夢想する瞬間もあり、誰よりも理想家であるからこそ誰よりもリアリストになるのかもしれない。しかし、こんなことを言えばフェリーニ先生に「すべてのものは現実だから、リアリストもなにもない」と怒られるかもしれない。別にいいや、フェリーニは死んでるから。