ゴダールの『気狂いピエロ』を見て、自分が映画に何を求めているのかを見つめ直すことになった。その過程を記しておこうと思う。映画史や芸術には疎く、もっぱら自分の興味のある側面から錯綜しつつ考えることになるが許してほしい。それと僕のゴダール論はただの偏見でしかない。
ゴダールは映像の天才らしい。自分は映画的語彙はあまり持ち合わせていないし、周辺の教養があるわけでもないので正直すごさを実感するのは難しかった。断片的なモンタージュ、非連続的なジャンプカット、鮮明な配色と構図、政治的な要素、愛についての描写はあったと思う。ただ、僕の興味は映像よりも作者が伝えたい意味や意図の方にあった。その点で楽しむことができず、中盤で眠くなった。
僕の映画に対する美的感性やカタルシスは、形式と意味の必然的な結びつきを求めるものだと思う。例えば、黒澤明の『生きる』の主人公は雪の中公園のブランコを漕ぎながらゴンドラの唄を口ずさむ。僕にはブランコの規則的な運動は死を、震える歌声は生の意味を掴んだ喜びを表しているように見える。このように、映画的形式=構図、運動、音、時間が作品の中心的な意味を支えており、個人の死を「生きるとはどういうことか」という普遍性へと昇華させている。また、タルコフスキーには、火や水といった自然の物質性を通して精神的なものまで感じさせられる。その流れ続ける時間は、ベルクソンの純粋持続を想起させる。僕がこれらに共通して感じるのが、構図、音、時間のすべてが一つの中心的な意味へ収束していくように見えること。さらにそれが人間の生の苦痛や救いに対して、どれだけ誠実で魂を動かすものであるかどうか。つまり、宗教的・存在論的な問いを内包しているかどうか。
ゴダールの映画は後のフランス現代思想と接続して論じることもできる。例えば、哲学者のドゥルーズはベルクソンの運動と時間についての哲学を参照しながら、ゴダールの映画を論じている。彼の現代映画論では、時間は行為への従属から解放されて直接的に現れるようになり、とりわけゴダールにおいては映像同士の非連続な切断とその「あいだ」が前景化する。古典的物語映画が前提としてきたショット間の連続性を切断し、映像や引用=記号を非連続な断片として表現した。これは、意味を固定的な対応関係ではなく使用や文脈のなかで捉えた後期ウィトゲンシュタインを連想させる。そのように既成の連続性を切断する映画は見る者に思考を促すことになる。その結果、観客は受動的に物語を追うだけではなく、映像同士の関係について考えることを要求される。ゆえに、ゴダールの手法は僕にとっていわば解体の美学として映り、映画が現実の断片であることを提示し、映像同士が自明に結びつくという前提を拒否しているように思える。彼自身、本を最初から最後まで読むことは稀で、一つの文章や断片に強く惹かれるような読み方をしていたと語っている。そうした読書の仕方は、哲学的な断片を引用し、映像や言葉と衝突させる彼の映画にも重なって見える。後期ゴダールのレヴィナスの引用は個人的にも好きだ。
ただ、僕には『気狂いピエロ』では、偶然性や断片性そのものが暴力的ともいえる配置によって一つの様式として組織されているように見える。映像表現そのものに価値があることは認めているが、それが人間の生や倫理にかかわる切実な問いへ結びついていないと、僕にはただ記号が氾濫しているようにも見えてしまう。その印象は、詩、音楽、映像が互いを説明することなく、むしろ食い違ったまま併置されることによって強められている。こうした形式は、意味が最終的な一点へ固定されず、別の記号との関係のなかでずれ続けるというデリダの差延を連想させる。
より抽象的に捉えるなら「意味/無意味」や「必然性/偶然性」という対立は、固定的な意味や本質、必然的な根拠を求める傾向と、意味や主体を歴史的・関係的・偶有的なものとして捉える傾向との緊張関係として整理できる。しかし僕自身は、もし芸術が構築によって何らかの秩序を与えることを完全に放棄し、混沌を提示するだけならば、そこには救済のないニヒリズムしか残らないのではないかと思う。不条理を認めながらそれでも生きるというカミュ的な態度によってこそ、生を肯定できるのではないだろうか。
ここで僕が想像するゴダール的な反論は、そもそも「秩序」そのものがイデオロギーとして機能しうる、というものだ。だから僕には、意味を一つに固定することへの彼の拒否が、ある種の誠実な暴力のようにも見える。映画では、映像、文字、音声が同じ時間のなかに置かれながら、互いを説明するどころか、互いを裏切ることさえできる。ゴダールの映画は、そうした不一致によって、私たちが無意識のうちに出来事のあいだに因果関係や整合性を作り出してしまうことを暴いているように僕には見える。
しかし、ゴダールにおいて偶然性のように見えるものも、人為的なものにとどまるのではないか。従来の映画がその人工性を隠しているとゴダールが批判するとしても、彼の映画も偶然のように見える加工された知的な人工物に過ぎない。少なくとも僕にとって、ゴダールが成功したのは映画の文法を破壊した、という点においてであり、人間の生を豊かにする意味を提示したことにはなかった。僕が黒澤やタルコフスキーに好意的なのは世界の複雑さに立ち向かいながらも、最終的には何らかの秩序や真理を志向する点においてである。それは危険なことでもあるのだが、欲望的にはそういうものがある。
普遍的な意味があらかじめ保証されていないことを認めつつ、それでも社会的に意味を構築しなければ、僕自身は生きることに耐えられない。差異を差異として認め、意味が構築されたものであることを自覚しながら、なお誠実であろうとすることは容易ではない。SNSを見てみよう。欲望は絶えず方向づけられ、消費は際限なく促される。「おれたち」と「あいつら」、「内側」と「外側」という分断も繰り返し作られている。僕たちの理性は完全には信用できない。それでも、理性的であろうと振る舞わなければならないのではないか。そもそも僕たちは、文章を読み、立ち止まって理解するだけの余裕をどれほど持てているのだろうか。世界や他者に対して、本当に能動的に関わることができるのだろうか。たとえばドゥルーズのいう生成を、固定された自己の同一性が他者や環境との関係のなかで変化していくこととして実際に引き受けようとしても、それを言葉の上だけで演じることは容易だ。現実には僕たちは身体をもち、生活をもち、社会のなかでさまざまな制約を受けている。フーコー的に言えば、私たち自身がさまざまな権力関係のなかで形成されている以上、そのすべての外部へ出ることもできない。しかし、だからといって何もできないわけでもない。
普遍的な意味があらかじめ保証されていないことを認めたうえで、それでも何かに没頭し、そのなかで一時的な意味を作りながら、生の躍動を取り戻していくことが必要なのかもしれない。