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2020年7月16日木曜日

生活に埋没して図太く生きたい。


 「おい、地獄さ行ぐんだで!」とは言われなかったが、仕送りと僅かばかりの奨学金でギリギリの人間生活を送っていたので、マルクス主義で言うところの労働という自然疎外を学生である身を削ってしなければならないと考えていた折、先輩からバイトを紹介された。全くもって腹立たしいのは、学生というモラトリアム期間に、本を読んだり映画を観たりする時間を割いてまで金を得ようとしなければ、社会的な存在を認められないという風潮があることだ。しかし、人間にはエゴがあって、共産主義を目指した国が崩壊して、この国のシステムが資本主義である以上、金を持たねば自らの幸福の追求はままならないものであるような気がするし、生きることに固執する微小な欲求を満たすためにも金は必要だし、そもそもの実存に対する疑問というか、惰性でダラダラ生きていることにも辟易しているので、金の為に働くというのも、人間が生きる上で自らの矛盾と対峙しなければいけないことと同じで、甘受すべき問題であるのかもしれない。お久しぶりです。鳥取大学映画研究会の部長とは名ばかりの柿原です。宜しくお願いします。ぶらぶらと独り、夜間に散歩に出て、意味の無い煙草を吸って、意味の無い筋肉疲労によって乳酸が両足に溜まって、いつのまにか意味を感じなくなった人生の、意味の無い時間に、自由という鎖の上で、自由に選択した結果が今現在の自分であるとサルトル先生が言っていたので、また僕も死んだ蛇の目のような目をした人間を見て嘔吐するのも必然であると感じます。とにかくなんの目的もない散歩のなかで、街ですれ違う人間の顔を見てると、全くの生きる気力を失ったような表情をしているのがどこからともなく歩いて来て、またどこかへ行ってしまう。こんな黴臭い田舎の街にいると、主体性のある人生を送ることを諦めて腐って終わるか、なんの才能もない低能で無能な学のない白痴の人生を無理やりにでも肯定して、そのために他人の人生を否定して生きなければならないのかもしれないけど、それはこの田舎に限ったことではなく、この世界に溢れて、また今日も発情して生殖している人間の愛くるしい特徴の一つだと思う。まぁ色々書いたけど、こんなことを考えずに生活に埋没して図太く生きたい。
 知り合いの統合失調性の女性が、フェデリコ・フェリーニが好きだと言うので、僕も「甘い生活」をU-NEXTで観ました。La dolce vita。妄想癖と虚言壁がある女は退屈ですぐ飽きてしまうけど、フェリーニの撮った映画は人間の汚いところがあってずっと見ていられるほど素敵。「道」の劇中で、「君にも、この石ころにも存在する意味がある」とサーカスの劇団員が言っていた。僕は全くそう思わないけれど、夢があって良いなと思ったし、ちょっと泣いてしまったので、誰にも理想があって、夢想する瞬間もあり、誰よりも理想家であるからこそ誰よりもリアリストになるのかもしれない。しかし、こんなことを言えばフェリーニ先生に「すべてのものは現実だから、リアリストもなにもない」と怒られるかもしれない。別にいいや、フェリーニは死んでるから。

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