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2026年9月12日土曜日

軌跡1

はじめまして。

一年くらい前から、ちょいちょい映研に顔を出してる外部の人間です。

ブログも書けるようになったし、先輩、友達に勧められて色々な映画を見ていくうちに考えが変わっていったのでその軌跡を残しておこうと思います。


映画研究部らしい話ができると期待はしないでほしい。ただ、なぜ記録しておこうと思ったかというと、存在していたことを残すことも大切だと感じたから。

トルストイが作家として成功した後に直面したように、生の意味をめぐる実存的な空虚さは、誰にとっても無縁ではないのかもしれない。ニーチェの永劫回帰が問うように、それでもなおこの生をそのまま反復することを肯定できるのか。あるいはカミュのいうように、意味を求める人間と、それに答えない世界とのあいだに生じる不条理を引き受けるしかないのかもしれない。ただ、私が私の生のなかで何を肯定するか、何に価値を置くかは、主観的に決めることができるし、社会的な価値を生み出すことは別の次元で人生に意味を与えるものになりうる。そして私は、スピノザのいう自然の全体のなかに自分を位置づけるように、僕を歴史の全体のなかに位置づけることに少しだけ意味を感じた。

 

芸術は、破壊からはじまる。そう、個人的には考えている。ここで面白いのは、千葉雅也が「勉強とは、自己破壊である」と述べていることだ。芸術と勉強は非常に近い営みなのだと。そんなわけあるか!と思うかもしれない。でも、ドゥルーズも、「思考はそれを強いる何かとの出会いから始まる」と考えている。私たちは外に出てあらゆる芸術、学問とそれらを作り出す人間に触れながら、破壊と訂正を繰り返して生きている。そう考えると、映画においては、時代を超えた他者に出会うことができるし、破壊と表現の形式を提供してもいる。そして大学生という共同体のなかで映画を通して他者と言葉を交わすことができる。

 

恥ずかしい話、中学生の頃の私はノーラン映画のように複雑な脚本と張り巡らされた伏線を考察することが最も尊いのだと勘違いしていた。ほかにも、わけのわからない怪鳥音を出すスターに憧れてヌンチャクを振り回したり、何言っているのか聞き取れない侍映画を見て竹刀を振り下ろしたりしていた。高校生の頃は、社会からも映画からも離れていた。

 

いよいよ大学生になり、飛び入りで映研の人たちと映画を見に行く回に参加したのだが、初っ端からブレッソンの『白夜』を見させられた。登場人物は感情をほとんど露骨に表出せず、美しい映像がただ流れてゆく。こんなにも映像は何かを語りうるのかと、そのとき感じた。その後、先輩たちと話していく過程で自分の作品を観るときの比重が、物語的な意味の解読から映像そのものが持つ質感やリズムの受容へ、少し傾いた。それから、様々な映画を楽しめるようになったと思う(たいして観ていないが)。しかし、坂口安吾の「美しさのための美しさは空虚だ」という感覚を借りれば、美そのものを目的とした形式にはどこか必然性が欠けているようにも感じる。


2024/6月の記録

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